| 相場エッセイ〜ただのひとり言〜 |
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| soba essay | ||
∇「けっこうたいへんなんです」〜ただのグチ 2003.2.10 今日のひとりごとは、まったくの「グチ」である。誰に言うわけでもないから、自分のホームページにグチりたいと思った次第である。読んでいる方には、ほんと、申し訳ない。 今現在、企業向け原稿で数社抱え、それも週刊誌や月刊誌などさまざまである。情報会社系などへの日々の情報配信を併せると、一週間でかなりの原稿量である。書いている銘柄も、マイナーなものでは鶏卵、ブロイラーから、またメジャーなものでは石油や金、その他には、白金、ゴム、アルミ、ニッケル、砂糖、コーヒーと、考えてみれば、穀物以外の商品のほとんどを書いている。自分の中では、その集大成となるのが毎週日曜日に発刊している「マーケット特派員情報」となるわけで、各銘柄は、業界でも選りすぐったスペシャリストの方々にもお願いしているわけだ。その合間を縫ってのホームページの更新は、けっこう骨が折れるものである。何度、「今日で止めようかな」と思ったことか。その回数、数知れず。 今は、会社員ではないため、実質的にはフリーなのだが、制約という意味では、サラリーマン時代の非ではない。風邪を引こうが、体がダルいだろうが、歯が折れて、頭がキンキンしていようが、あるいは、家族全員が病に倒れ、看病しなくてはならないだろうが、四の五の言っても始まらず、仕事は待ってもくれなければ、他人がカバーしてくれるわけでもなく、ただただ、黙々とこなしてゆかなければならない。唯一、救われるのは、拘束時間というのがないため、そうした時間で、やっと、人並みの生活時間が確保できるわけだが、それでも、やはり、原稿の締め切り時間はいつもくっついてくる。どこかに遊びに行っても、気が気ではなく、やっぱり、サラリーマンの方が楽かなぁ〜と思うこともしばしば。 ということで、ホームページの更新内容も、そのほとんどが商売道具となっているから、なかなか、価値あるものが表面に出しにくくなってきたし、時間の制約も出てきた。別に、「これから、ホームページを閉じる可能性があります」という前振りというわけではないのだが、たまには、グチりたくなる今日この頃なのである。 ∇「投資に近道なし」 2002.11.5 ほぼ毎日更新しているニュースnowの前書きとして書いていたが、なんとなく、長くなってしまったし、どう見ても、「ただの独り言」だろうということで、この「相場エッセイ」のページに移動してきた。 さて、あまり他のサイトを訪れることはしない方だが、ここ最近、ずいぶんとまた新しいサイトが立ち上がり、どれも、よくできている。返って、以前からあるサイトが見劣りしてしまうほどだ。特に最近目に付くのは、「投資コンサルタント」のようなサイト。売ります、買います、を、直で支持するような勇ましいサイトがけっこう多くなっている。 私も商品相場の道、20年になるが、よく、電話などで投資家の方と話すとき、情報は、知る限りのことは教えますが、売りと買いはご自分で判断を…ということにしている。ナゼか?。答えは簡単。そんなに相場が分かるのなら、自分でこそっとやっているからだ。他人の投資にまで導くことは神のみぞ…という感じがしてならない。「投資家わらをもつかむ」という気持ちは理解できなくもないが、他人の言うことほど当てにはならないし、また損をしても、信じた自分が悪いのだ…ぐらいにしておかないと、とんでもないトラブルの元になる。信じられるのは、自分の目と耳と判断力のみであるし、これまで出会ってきた、成功した多くの投資家の方々が、そのようにしているし、いわゆる、大手仕手筋といわれる方々ほど、そのように、自己哲学を確立されていて、己の道を究めている。 それと、投資のコンサイタント業なるものに、カリスマ性を求めても、それは、どちらかといえば、宗教の世界に入っていってしまうし、自分が投資家の一人であれば、それを追い求める必要は全くなし。自分のカリスマ性のみぞ、磨くしかない。相場に勝つか、負けるか、という厳然たる結果しか残らないのだから。 最後に、一つだけアドバイスできるとすれば、相場に勝つ秘訣は、といえば、「学問に近道なし」ではないが、罫線分析や情報といった地道な努力を積み重ねていくしかない。 ∇相場師の物語 2002.9.12 梶山季之の「赤いダイヤ」を読み終えた。業界に入ってまもなくの頃、有名な相場の小説だということで、以前に、一度読みかけたことがあるが、つまらなかったので、上巻の途中で捨てておいたのだった。 株の世界を小説にした「大番」があまりに面白かったためであろうか、この「赤いダイヤ」を読みたいと思い、また買ってきた、ページをめくったが、なるほど、これも読み進むに連れ、面白さが伝わってくる。 ただ国際商品全盛のこの時代、やはり小豆相場はピンとこないし、需給よりも、仕手の動きが優先するというのは、市場としてどこか不完全であるのだろうなという感じを受けた。 今でも、仕手筋と言われる名高い御仁はいるが、この小豆のような腕力相場が通用しなくなっている現代、仕手とするのではなく、それは、あくまで大手投資家ということになるのだろう。ただ相場に賭ける資力や情熱は、我々一般人とはやはり違うため、よく、「相場師」と呼ばれるのは、まったく、はまった言い方であるなと、妙に感心したりする。 さて、小説の中では、主人公である木塚慶太が、最後には、小豆の現物を輸送中に、その船が沈没してしまったものの、その船にかけていた保険金により、3000万円を儲け、その後に仕掛けた小豆相場で、ついに9000万円の現ナマを手にするという結末を見るわけだが、商品先物の魅力と夢を、この小説が十ニ分に語っているあたりは、見事である。 今、デフレ時代を迎え、経済状態は、この小説が書かれた当時と似たようなところがある。当時は、株から、商品、いや、この小豆という先物に投資をする人がごろごろとあったそうだが、今は、株がダメならタンス預金となってしまい、商品までには回ってこない。 それだけ、商品相場というものが、投資家から遠いところにあるわけだし、日本人の多くは、小金持ちだから、あえて、リスクを犯してまで、怖い怖い先物に手を出さなくてもという風潮が一般的だ。 また先物市場自体の商品設計が、旧態依然であり、新しい商品は怒涛のごとく増えはするけれど、どれも市場設計は昔も今も変わりはない。例えば、ミドルリスク・ミドルターンといった、ある程度、長期投資のできるものであるとか、もっと、マクロ的なもの、例えば、農産物指数だとか、工業品商品指数であるとか、それこそ、少しずつ一般のサラリーマンにも浸透しそうな商品を開発すべきであるし、取引所には、その義務があると考える。小説の中で、穀物取引所の理事長でありながら、小豆相場の売り方筆頭となった松崎理事長は、犯罪めいた理不尽さを感じざるをえないが、その後、何十年にわたっても、旧態依然で良しとしてきた近年の取引所の在り方にも、大いに問題有りといえるのではなかろうか。 ∇ギューちゃん 2002.8.6 ◇獅子文六の「大番」を読み終えた。これは、昭和31年から33年に週間朝日に連載されたもので、獅子文六の名を世に知らしめた作。 ◇久しぶりに、小説の中に溶け込み、まるで、ギューちゃん、その人が、自分のそばにいるでもするかの如く思いにさせた。1頁めくるごとに楽しみで、目の前に、その風景がありありと見えるかのような臨場感があった。今から、半世紀以上も昔の小説だというのに、少しも色あせていない。 ◇ギューちゃんこと、赤羽丑之助は、四国の田舎を飛び出し上京、ひょんな縁で小さな証券会社に小僧として入る。そこで株屋として成長してゆく姿を描いたものだ。ギューちゃんのギューとは、牛のことで、名前(丑)から取られたものだが、姿格好がまるで牛みたいにずんぐりしているところから愛称として親しめられた。 ◇このギューちゃんは、株で何度か大儲けしては、それ以上の損を出し、その都度田舎に帰っては、また株にチャレンジするという人生を送るが、最後は、相場師として成功納め、自分の会社を持ち、ゴルフ場を経営したりなどビジネスの幅を広げる。そして、株屋としてのストーリーとして平行して繰り広げられるのが、ギューちゃんのプライベートである。酒にばくちに女好き。特に女はこよなく愛す。その一方、幼少時代からの純愛を最後まで通すなど、古き良き時代のラブストーリーも絡んでいる。 ◇時代は巡るというが、この半ば化石のように古い小説が、まざまざと、現代にも通用するほど、愛する中身を伴っているのは、賞賛に値する。 ◇ いや、乾燥無味なこの時代だからこそ、その生々しい人生模様に引かれるのかも知れない。ぜひ、若い方に読んで欲しい秀作である。 (上下2巻・ゼネックス発行) ∇最後の新聞記者 2002.8.3 ◇人と会って、話しをすることが基本的な仕事だから、職種的には好きでないとやってられない部分がある。特にこの業界は狭いから、一期一会の意識を持たないとつまはじきにされてしまう。 ◇ところがである。古いタイプの記者などは、そんなことはおかまいなし。言いたいことをいって、主張したいことを歯に衣をつけもせずに書く。そんな気骨ある新聞記者に私の上司でもあった岩本巌さん(大岩出版=商品市況研究所・通称ガンさん)やら、佐藤栄太郎さん(先物ジャーナル・通称エイちゃん)らがいらっしゃったが、悲しいかな今は亡き人である。いろいろなことを教えていただいたが、まだまだ教えてもらい足りないほどで、今日、フッと、「最後の新聞記者」らのことがなんとなく頭をよぎったのは、お盆の時期で、私事ながら、里帰りして、お墓参りでもしようかと考えていたせいなのかもしれないが、あらためて原稿を書く、記事を書くということがなんであるのか、回顧してみたくなったせいであったのかもしれない。 ◇なぜか気ばかりあせって、ビジルス・ビジネスと考えてしまいがちだが、文章に魂を入れるだとか足を使って価値ある情報を取るという基本に常に立ちかえらなければ、ただの文章、ただの商業文となってしまいがちで、それは、相場の神様に見放されてしまう行為ではないのかと、なんとなくではあるが考えさせられた。 ◇情報社会にあって、相場に関する情報も、ネットで簡単に取れる世ととなったわけだが、それだけに、ネットで取れるということは、すでにその時点で万人が知っている価値の少ない情報となってしまっているわけで、それを商品として提供するということは、それは、取材記者ではなく、あくまで整理記者の仕事である。最近、自分もそんな種族に入ってしまったのではないかと反省しきりの部分もあり、本当に価値があり、中身のある情報で勝負してゆかなければ、「最後の新聞記者」達の後塵を拝することもできないのではないかと妙にしんみりしたりする。 |
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